NO.49
伊勢の蘇民将来 (2008.3.14 学芸員・尾崎織女)
先週の休館日は館長の運転で伊勢を訪ねました。ちょっとした仕事があり、伊勢神宮のお膝元「おかげ横丁」訪問が目的でしたが、学芸スタッフの研修もかねての遠出でした。5人それぞれが小学校の修学旅行以来の伊勢――ひさかたの光あふれる伊勢神宮はさすがの風格を漂わせて、美しくも厳かに在りました。
▲伊勢神宮の鳥居前にて
参道筋のおはらい町も「おかげ横丁」もたくさんの人出で賑わいをみせ、遠来の客人たちをもてなすことと、町の人たちが地元の伝統を受け継いでいくこと、その両立を目指して頑張っておられる元気な方々に接し、私たちもずいぶん刺激を受けました。
さて、伊勢の町を歩いておもしろいものが目につきました。3月に入った今も、家々の軒に注連縄が付け置かれているのです。注連縄には「蘇民将来子孫家」と書かれた木札(裏側には「急急如律令」の文字)が下げられています。松阪から伊勢にかけての地域では、正月迎えのために用意された注連縄が、一年中、外されることなく、家に災厄がふりかからないよう、家人が病気に罹らないよう守ってくれるとされてきました。
「蘇民将来」の故事は、鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』(奈良時代)をはじめ、いくつかの文献に記され、江戸時代には、厄除けのまじないに「蘇民将来」の木札を用いることが庶民の間でも広く行われていたといわれます。その故事にはバリエーションがありますが、概略、次のようなものです。
▲伊勢の注連縄
・・・・・・・将来という名の兄弟がありました。旅の途中で宿を乞うた武塔の神を、非常に裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断りましたが、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、貧しいながらに心を込めてもてなしました。後に将来のもとを再訪した武塔の神は、巨旦の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く巨旦将来の一族を滅ぼしてしまったのです。武塔の神(スサノオと目される)は言います。「もしも、のちの世に疫病が流行っても、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪(茅でつくった輪)を腰につけていれば、災厄を逃れることができよう」と。
伊勢の注連縄にかけられた蘇民将来の木札は、この故事にもとづいたまじないです。
郷土玩具の世界には、数多くの「蘇民将来」の護符や木札が伝えられています。宮城県仙台の陸奥国分寺、山形県米沢の笹野観音、長野県上田の国分寺八日堂、埼玉県飯能の天王山竹寺、愛知県名古屋の洲崎神社、京都の八坂神社などから授与されるものが有名です。洲崎神社のものを除いて、皆、角柱型。上田の国分寺八日堂で授与される護符は六角柱で、その六面には、「蘇民・将来・子孫・人也・大福・長者」の文字が墨と朱で書かれています。
▲後ろ側3点は、上田の国分寺八日堂の授与品
前側の細長い1点は、飯能の竹寺の授与品▲米沢の笹野観音の授与品
さて、郷土玩具の常設コーナーに、このような護符の類も展示しているのですが、「ええ?これが玩具?!信仰的なものなのでは?」と驚きの声でご質問を受けることがあります。これらは、確かに子どもの遊び道具ではありませんが、古くから郷土玩具の世界にも属していました。
「玩具」という書き言葉、「おもちゃ」という話し言葉が子どもの遊び道具をあらわす日本語として統一されたのは、日露戦争前後、国体意識が強まる明治時代末期のことです。この頃におこった国語統一運動の中、新時代にふさわしい共通語として様々な言葉が明治政府によって採用されていきました。「玩具」は、貴族社会で上流階級の男性が使っていた書き言葉の中のひとつ、「おもちゃ」は、上流階級の女性が使っていた話し言葉でした。ともに、手に持って遊ぶ道具をさしています。一方、庶民は、というと、「手遊び」「手守り」「手すさび」「もちゃそび」「わっさもの」・・・・など、地方によって様々な言葉を使用し、それらが指し示すものは、遊び道具というにとどまらず、持つことで魔をよけ、幸福を呼び込むような、まじないや縁起に満ちた呪具をも含んでいたのです。近世社会においては、「蘇民将来の護符」は、「手守り」の仲間と位置づけられていたと思われます。
西欧社会と肩を並べるような近代国家をめざす明治政府は、近世社会が育んできた「手遊び」「手守り」「手すさび」などの世界を旧弊として退け、「玩具(がんぐ=おもちゃ)」に、近代的国民育成のための教育的な道具、工場の生産ラインで作られる規格化された遊び道具という意味を与えました。それらは近世庶民が愛した呪術性のある「手遊び」「手守り」の世界とは一線を画するものだったと思われます。
遊びに出て 子供かへらず 取り出して 走らせてみる おもちゃ玩具の機関車
石川啄木が、明治45年に発表した歌集『悲しき玩具』の中にこのような歌があります。「機関車」は富国強兵時代の象徴、くわえて啄木は、「玩具」という言葉にも新時代の響きと匂いを託したのでしょう。玩具の機関車は、工場で作られるブリキ製であったか、と想像します。
国家が採用した「玩具」という言葉に押し出され、時代から置いてきぼりにされた近世の「手遊び」や「手守り」の文化を引き継いだのが、私たちがいう「郷土玩具」です。ですから、民間信仰に満ちた四季折々の小さな護符や守り札などの類は、郷土玩具の世界の住人としても、生き続けているのです。呪具と玩具は、地続きの関係にあるといってもよいと思います。
・・・・・・理屈っぽい話になってしまい、申し訳ありません。何にしろ、遠く訪れた町々で、古い時代から伝承される小さな護符などが生き続けている様を見るのは、非常に心惹かれること!に違いありません。
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NO.48
千客万来、雛まつり (2008.3.3 学芸員・尾崎織女)
桃の節句です。昨日は、節句前の休日とあって250名をこえる方々のご来館を受けて賑わいました。受付スタッフによれば、「雛人形を見たくて来ました」という声がとびきり多く聞かれたようです。展示会場には、女の子を連れたご家族や、おばあさんとお母さんと娘さんという女三代でのご来館も目立ちました。
▲春の日差しに包まれるランプの家の雛飾り
ランプの家の縁側に設けている「桜茶」のコーナーもフル回転。庭のマンサクや福寿草の黄色い花を眺めては、畳の間に飾られた昭和の雛人形に目をやり、雛まつりの思い出話に花を咲かせる来館者の風情にも、春らしい趣がありました。
午前中には、昨春、大正時代の御殿飾り雛を寄贈下さったご婦人が娘さんと二人で、懐かしい雛との再会を楽しまれ、午後からは明治時代の京製古今雛の寄贈者のご友人が、目を細くして、思い出の古雛に見入っておられました。
▲展示解説会風景
午後からは、恒例によって展示解説会を行いました。
1時間ほどかけてゆっくりと会場の雛についてご案内したのですが、中には毎年、必ず、解説会にお越しになられるご家族もありました。最初にお会いした折には幼稚園児で、私の質問にも大きな声で答えてくれていたボクが、もう中学2年生。毎年、ここで過ごす数時間が少しずつ積み重なり、この館から得た何らかの感情や知識が彼の心に小さくても確かな面積を占めていくようなら、「博物館冥利につきる」というものです。
そんな風に思っている時、「尾崎のお姉さん、全然、変わらないわぁ」と若いお母さんに声をかけられました。学生時代に何度か雛人形展の解説会に参加して下さった方で、この日は、小さな女の子の手をひいてのご来館でした。「家にもお飾りしたのだけれど、この子に古いお雛さまを見せてやりたくて」と。もう「お姉さん」なんていう年齢はとっくに過ぎた私ですが、昔どおり、そう呼びかけて下さる方に再会する度、流れた歳月を想うと同時に、皆さんの心の中に、おもちゃ館が存在感を持って息づいているという実感を得て、とても嬉しくなるのです。
ところで、その彼女は、学生時代にこの展示室で出合った「三春の張子雛」が忘れられないと話しておられました。
彼女が今も好きだという三春の張子雛は、画像の左側です。福島県郡山市高柴の張子師(橋本広司氏)が木型に和紙を張り抜いて作るもので、見ているこちら側もつられて笑顔になってしまうような奔放な表情と明るい彩色が魅力的な郷土人形です。男雛の振りあがった両袖と動きのある姿態、女雛の緋色の袴(はかま)と重ね着た十二単の表現などは、この地方に伝わる江戸時代の衣装雛「享保雛」の様式を映したものと言われています。右側の画像がその享保雛。三春の張子雛と見比べていただくと、姿形の共通点がよくわかります。
豪華な衣装をまとった雛は、江戸後期から明治・大正時代を通じて、都市部の富裕層のものでしたが、張子や土など型抜きで量産される雛は、衣装雛に手の届かない人たちのためのものだったといわれています。
最近は、若い世代の来館者がこうした素朴な雛人形に接し、「デザインが現代的に思える」とか、「軽さと存在感のバランスが面白い」「泰然として、風格のあるお雛さまだと思う」などという感想を伝えて下さることも度々です。伝統的なものに触れた、というよりむしろ、新鮮な表現に出合ったと感じられる方が多いように思います。さて、皆さんはどのようにお感じになられますか?
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NO.47
草花雛 (2008.2.29 学芸員・尾崎織女)
菜の花のお雛さまをご存知でしょうか。花の部分を頭に見立て、大きな葉の衣装を着せた素朴な雛人形です。
今日は、地元の団体が主催する「食文化セミナー」に招かれ、「ひなまつりと春の食べもの」というタイトルでお話をしたのですが、講座の最後に、受講生の皆さんと一緒に「菜の花雛」を作りました。野に菜の花が咲く季節には早いというのに、セミナーを主催したスタッフの方々のご努力で、見事な菜の花が会場に用意され、50名ほどの皆さんが、目を輝かせて素朴な雛人形を作り上げていかれました。
私は播州の農村部で幼い時代を過ごしたのですが、桃の節句になると、幼馴染たちと一緒にお弁当をもって野や山へ遊びに行きました。そこで春の草花を摘み、小枝や松葉を集めると、何対ものお雛さまを作ったものです。播州に限らず、草花雛は、節句に野遊びや山遊びに出かける風習のある地域などを中心に伝承され、長く子どもの遊びの中で生き続けてきたものと言われています。
作り方はとても簡単。画像でご紹介いたしましょう。
@衣装になる葉と頭になる花、衣装を
止める小枝(松葉)を準備する。A葉を葉脈に沿って半分に折り、真ん中
に花をのせる。B花の茎に衣装を着せるように、左、
右と葉を合わせ、小枝で止める。
奈良朝時代に日本が中国から受け入れた上巳節(桃の節句)は、水辺で草人形(くさひとがた)などによって禊ぎを行い、仙木である桃の枝や花を浸した酒を飲み、鼠麹草(母子草)を入れた羹(餅状のもの)を食し、春の植物の薬効と霊力を取り込むことによって、身体を健康に保とうとする特別の日でした。近世に入って、桃の節句が女性たちのものとして意識され始める頃から、そこに「雛遊び」や「雛飾り」の要素が加わり、今日へとつながっていきます。
旧暦の3月3日は、今年のカレンダーでは、4月8日に当たります。桃の花は満開、菜の花やタンポポは野に咲き乱れ、桜花もほころび始める春爛漫の好季節に祝われるのが本来の節句でした。桜の「サ」は田の神、「クラ」は座を表わすといわれます。桜(山桜)は、田の神が宿る樹木であり、桜が咲くことで農事が開始されました。満開の桜は秋の豊作を告げるもの。人々が桃の節句の頃、山へ野へとくり出していくことには、田の神をお迎える意味が込められていたのでしょう。
そんな桃の節句の野遊びに登場する素朴で愛らしいお雛さまは、古い時代の草人形のかすかな名残を感じさせつつ、めぐりきた春の喜びを小さな身の内に宿しているようです。
近くの野に菜の花が咲き始めたら、皆さまも是非、草花のお雛さまをお作りになってみて下さい。スミレでもタンポポでもレンゲソウでも、頭はどんな花で作っても、可憐で風情のあるお雛さまになりますよ!
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NO.46
『御殿飾り雛』の世界 (2008.2.2 学芸員・尾崎織女)
年明け早々の『全国凧あげ祭り』、神戸そごう百貨店で開かれた 『私の針仕事』展(日本ヴォーグ社主催)への協力展示、そして、井上館長が昨秋、文部科学大臣から「地域文化功労者」の表彰を受けたことを記念しての祝賀会の開催・・・と、大忙しの1月を過ごした後、学芸スタッフは総出で展示替えを行い、特別展『御殿飾り雛』が本日オープン致しました。
「一番かわいい!」と人気のお雛さま
(明治時代・京都大木平蔵製)
御殿飾りは、江戸時代の終わりには既に京阪地方で流行しており、関東地方で屏風を立てた段飾りが発展するのと平行して、その様式を整えていきます。館に暮らす男女一対の雛と、お仕えする人形たち、数段を作って、そこに諸道具類を配する賑やかな御殿飾りは、いきいきとした人形たちの声が聞こえてきそうな、動きを感じさせる飾り方です。天保8年頃より約30年間にわたって当時の風俗が書き記された『守貞漫稿』の中で、筆者の喜田川守貞は、京阪地方の雛飾りが御殿を用いたものであり、身近な生活道具や質素な厨房の道具類などをともに飾るが、それらは女児たちに倹約を教え、家庭教育に貢献する要素があると考察しています。
関東の「屏風・段飾り雛」の傍に京阪で発達した「御殿飾り雛」を並べてみると、前者が静かで厳かな季節の室礼の趣を持つのに対し、後者には動的な遊びの要素が多く感じられます。ふり返れば、京阪には「雛遊び」の伝統がありました。
平安時代、貴族社会の女児たちは「ひゐな」という小さな人形を作り、折にふれて「ひゐな遊び」を楽しんでいました。先だって『源氏物語』をじっくり読み返す機会があったのですが、全五十四帖中、十数回にわたって「ひゐな」の言葉が登場し、中には、紫の上や明石姫君や女三の宮らが、「ひゐな」で遊んでいる様子が生き生きと語られるくだりもみえます。紫の上は、ひゐなを源氏の君に見立てて着せ替えたり、それらが暮らす館をこしらえ、お道具なども使ってままごと遊びを行ったりしています。
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| 御殿飾りと雛料理の小さな器いろいろ (明治〜大正時代) |
厨房の道具も置かれる御殿飾り (大阪高島屋プロデュース・大正12〜14年頃) |
「ひゐな」が、江戸時代に入って、そのまま桃の節句の「雛人形」となり、また、「ひゐな遊び」が直接「雛遊び」の世界につながるほど、歴史の流れは単純でないにしても、御所のお膝元で生まれた御殿飾りや、それと共に飾られる厨房の道具などの雛飾りの中に「遊び」の要素がふんだんにおり込まれていることには、貴族社会を支え続けた京阪地方の歴史性が反映しているのだと思います。
雛の勝手道具(大正時代)
ままごと遊びの道具として下段に飾られる
このような御殿飾り雛の世界をお楽しみいただこうと、6号館展示室では、江戸末期から昭和中期までの資料を、また、ランプの家には戦前戦後の代表的な資料を展示しました。木や紙で作られた質素な御殿から、重厚で豪華な明治時代の檜皮葺御殿、シックで軽快な印象のある大正時代の板葺御殿、物資が乏しくなる昭和10年代の御殿、戦後、暮らしが豊かになる時代の竜宮城みたいな御殿・・・・・・それらは、間違いなく、時代時代の美意識と夢を反映しています。
春の足音が聞こえるこの季節、是非、今年もおもちゃ館の雛たちに逢いにお出かけ下さいませ。