NO.65
クリスマス2008                    (2008.12.25 学芸員・尾崎織女)


▲クリスマス絵本の朗読会風景
天井には、私たちが手作りしたフィンランドの「ヒンメリ」が輝いています
 メリー・クリスマス! 冬至を過ぎて、太陽が生まれ変わったというのに、お天気の優れない毎日が続いています。けれども、ここ一週間、玩具博物館はとても賑やかでわくわくする日々を過ごしてきました。



 21日、23日には、恒例となったクリスマス絵本の朗読会や展示解説会を開催して、多くの家族連れのご来館を受けました。新聞やテレビの企画展紹介を見てご来館された方々、ホームページの記事を読んで行きたくなった!とおっしゃる方々、寄贈下さった資料と再会するために来られた方、クリスマス飾りについてレポートを書くという小学生、博物館施設について勉強中だという学生さんたち、それから、私たちのクリスマス展のファンだとおっしゃる方々・・・。



 ひとつの物語を囲み、また、ひとつのキャンドルの灯を囲み、偶然か縁あってか、同じ場所に居合わせた人たちと同じ時間を共有する、そして大人も子どもも互いに笑顔を見交わしながら、展示品について感想を話し合ったりする・・・、そんな風景に接すると、博物館という施設はなんてステキなのだろうか!と嬉しくなってしまいます。



▲エレナさんから届いたトムテ
design;SPEGELS
 学芸室に戻ると、私たちと交流のある海外の博物館や個人からクリスマス・カードやプレゼントが到着していました。中には、去る春に訪問を受けたスウェーデン在住のメキシコ人・エレナ・クェヴェード・スターレさん(学芸室No.50でご紹介しました)からの小包がありました。ドキドキしながら開梱すると、包みから「トムテ」の人形が登場しました。トムテは、農家の家畜小屋に暮らし、
▲北欧の小人のコーナーに展示する
家人の人生を見守り続ける自然神。クリスマスの朝、人々に「プレゼントを届ける小人さん」として、親しまれてきたものです。デザイナーのエレナさんのお見立てとあって、トムテはシンプルで美しい形です。大急ぎで収蔵登録を行い、さっそくに展示室の北欧コーナーに追加展示しました。
 玩具博物館の展示品は、こんなふうにして、少しずつ仲間を増やしていくのです。


 皆さまには、今年もトムテのように私たちの活動を見守って下さり、ありがとうございました。どうぞ暖かい気持ちで年末年始をお過ごし下さい。









NO.64
フィンランドのクリスマス飾り「ヒンメリ」          (2008.12.10 学芸員・尾崎織女)


 「ヒンメリ」と呼ばれるクリスマス飾りをご存知でしょうか?
▲『ヒンメリ』((おおくぼともこ著/
プチグラパブリッシング刊/2007)と
ヒンメリを飾る少女
1940年のクリスマス(ヨウル)カード

今月のおもちゃ12月号で、担当者が紹介しておりますように、「ヒンメリ」は、12世紀からの歴史を持つフィンランド伝統のクリスマス装飾です。
 フィンランドでは、ヨウル (=クリスマス)を待つ季節、家族みんなで麦わらを切り、針に糸を通して大小の幾何学的な形をつなぐと、それらを組み合わせて、ひとつの壮麗な作品を仕上げていきます。そんなヒンメリには、色々なデザインが見られ、中でも、天井からつりさげるシャンデリア型モビールは、とても豪華です。
 「ヒンメリ」という言葉は、美しく心惹かれる響きをもっていますが、これはスウェーデン語の「ヒンメル〜Himmel=空」に由来するといいます。ゆらゆら揺れる麦わらのモビールには、天空からもたらされる風の精霊が宿り、飾られる空間を清らかな空気で満たすものとされています。

 さて、このヒンメリを最初に見たのは、10年ほど前のことです。兵庫県城崎町の伝統工芸「麦わら細工」を伝承する皆さんが研修旅行として北欧各国を訪ねられた折、各地の麦わら細工の色々をカメラに収めて帰国されました。見せていただいたその写真帳の中に、フィンランドの「ヒンメリ」がありました。それは、立方体が複雑に組み合わされた暗号のような造形で、素朴な民家の室内に飾られた様子が強く印象に残りました。その時から、実物を一度、見たいものだと思っていたのでした。

 昨年から今年にかけ、当館友の会の笹部いく子さんのご紹介によって、初めていくつかの小さなヒンメリを収集することがかないましたが、たくさんの立方体を組み合わせて作り上げる大きな作品は、なかなか入手が困難です。そんな中、ありがたいことに、笹部さんは、先ごろ、フィンランドの麦わらに、ヒンメリ作り専用の針や糸などをつけて、私たちにプレゼントして下さいました。「学芸室の皆さんで仕事の合間に、作ってみて下さい」と。

 笹部さんにいただいた作り方説明書や、昨年、プチグラパブリッシングから発行された『ヒンメリHIMMELI』(おおくぼともこ著)を参考にしながら、学芸室の笹竹亜子と一緒に、ヒンメリ作りに挑戦してみました。夢中になり過ぎて、途中から経過を撮影するのを忘れてしまいましたが、製作の様子をご覧下さい。
12本用意し、針に糸を通して三角形をつないでいく。
正八面体をつなぎ合わせる・・・一辺5cmの正八面体(17個)と
2.5cmの正八面体(6個)をつないだところ。
この他に、一辺20cmの正八面体(1個)と
一辺10cmの正八面体(6個)を作る。
     
             全部をつなぎ合わせて完成させる▲


 空気が動くと八面体がそれぞれに動き、見つめるものの心にすがすがしい風が吹くようです。
 今週末には6号館展示室でご披露したいと思っています。ぜひ、ご来場の上、ヒンメリが揺れ動く様をご覧下さいませ。
 笹部いく子さんと、フィンランドの麦わらをもたらして下さった高原恵子さん&夢子さんに心から感謝いたします。



NO.63
ジャパニーズ・サンタクロース                  (2008.12.5 学芸員・尾崎織女)

 私たちは、サンタクロースといえば、リンリンと鈴を鳴らしながら、トナカイの橇で空を駆け、子どもたちに贈り物を運ぶ姿を思い浮かべますが、これは、19世紀のアメリカ合衆国において形成されたものです。そのイメージの源泉となったのが「A Visit from St.Nicholas」という詩で、このようにして始まります。
▲トナカイにのるサンタクロース
アメリカ合衆国製/古い時代のサンタク
ロースの姿を刻んだもの



 ’Twas the night before Christmas, when all through the house  
 Not a creature was stirring, not even a mouse;
 The stockings were hung by the chimney with care, 
 In hopes that St.Nicholas soon would be there; 

 クリスマスの前の晩 今は静かな 雪の夜
 ちゅう ちゅう ねずみもおとなしく みんな すやすや ねています
 だんろにかけた 靴下は
 サンタクロースのおじさいさん 早く たずねて下さいと
 なかよく 並んで まってます  (※片山五郎訳)

▲『さんたくろう』(教文館)に描かれた
 明治時代のサンタクロースの姿
 この詩は、1822年12月、クレメント・クラーク・ムーア博士が娘のために書いたもので、これに多くの挿絵画家たちが絵をつけて、アメリカ合衆国におけるサンタクロースのイメージが大きく膨らんでいったといわれています。

 松本富士男氏のご研究によると、日本で最初にサンタクロースが描かれたのは明治31(1898)年のこと。日曜学校の子ども向け教材として「さんたくろう(三太九郎)」という読本が刊行され、その扉にサンタさんらしき人物が描かれました。北国の老爺・さんたくろうは、ロバを従え、右手
▲ヴァイナッハマンのキャンドルスタンド
ドイツ・エルツゲビルゲ地方製/プレゼント
の袋を背負い、クリスマス・ツリーを持って
います。
にはクリスマス・ツリー、左手には杖を持っています。その表情は少々硬く、ドイツ系のサンタクロース「ヴァイナッハマン」を彷彿させる佇まいです。
 ドイツのクリスマス「ヴァイナッハテン」に贈り物を運ぶ人は、St.ニコラウス、クリスト・キント、ループレヒト、ヴァイナッハマンなど、地域によって様々です。当館の展示品の中には、St.ニコラウスと並んで、多くのヴァイナッハマンの人形がありますが、プレゼントをいっぱい詰めた袋を担ぎ、長いローブを身につけて、手にはクリスマスツリーをもった姿で表されます。
 明治時代の日本人が想像していたさんたくろうの姿は、ヨーロッパ系サンタクロースだったのでしょうか。

 
▲『キンダーブック』(昭和14年12月刊/
フレーベル館)の裏表紙に描かれた戦前の
アメリカ系 サンタクロース
 「今夜はサダクロウさんがきて贈り物を置いていく夜やなぁ」と、昔、祖父が話していたのを思い出します。明治30年代生まれの祖父母は、サンタクロースのことを「サダクロウさん」と呼んでいました。戦争が始まるまで、大阪の町に住んでいた祖父母家族は、クリスマスになると、子供たちのために百貨店で贈り物を買い、サダクロウさんの話を聞かせたりする落ち着いた暮らしをしていたようです。明治生まれの祖父母たちが思い描くサダクロウのイメージとは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
 
 戦争が激しさを増すにつれて、さんたくろう(三太九郎)やサダクロウさんは日本の都市部から姿を消し、柔和な笑顔の「サンタクロース」が、再び日本の子どもたちのもとを訪れるようになるのは、戦後のことでした。

 サンタクロースは各地のクリスマス風俗を明らかにする、まさにキーマンです。今冬は、戦前のクリスマスの知る方々から、さんたくろうやサダクロウの話を多く伺ってみたいと思っています。







NO.62
近世的な造形〜『諸国牛の玩具めぐり〜牛の郷土玩具と天神さん』展より
                                        (2008.11.22 学芸員・尾崎織女)


久ノ浜張子の俵牛
(福島県いわき市/昭和初期製)
 北九州市立小倉城庭園での『ちりめん細工・春の寿ぎ展』(12月13日〜2009年3月8日)の準備に加え、12月刊行予定の『伝承の裁縫お細工物〜江戸・明治のちりめん細工』の編集作業や、1号館での企画展準備などが重なって館に籠もりきりで過ごすうち、ふと気付くと、あたりには冬の匂いが立ち込めていました。
▲俵牛のいろいろ・・・後ろ側の斑牛は京都府伏見土人形、
左側の小さな斑牛が三重県津の土人形(廃絶)、右側が
愛知県半田の乙川土人形、手前の寝牛が宮城県仙台の
堤土人形 ※いずれも、明治・大正時代製

 来年の干支は己丑。今日から1号館の冬の企画展『諸国牛の玩具めぐり〜牛の郷土玩具と天神さん〜』が始まり、緋毛氈の上にずらりと並んだ小さな牛たちがお出迎えしています。年賀状の図案の参考に、と絵筆をもって来館される方もあり、早くも年末ムードに包まれる館内です。

 干支の動物を題材にした冬の企画展も恒例となりましたが、今回は、明治初年から大正時代にかけて作られた郷土玩具の大御所を数多く展示しました。12年ぶりに登場する牛もあれば、収蔵ケースの奥深く眠り、初めて光が照らされる貴重品もあります。井上館長が若い頃に収集したもの、大正時代や昭和初期に活躍したコレクターから寄贈を受けたもの……、一見、形も色も同じように見えますが、それぞれに風格があり、じっと対話していると、強い生命感がこちらに向かって流れ込んでくるような気がします。

 かつて農業国であった我が国のこと、農作業に大きな役割を果たした牛が、いかに大切な存在であったかは、各地の郷土玩具の中に、重いほどの米俵をのせた牛の意匠が数多く存在することによっても知られます。農耕神の使いとされる牛に、豊作のシンボルを組み合わせることで、豊かさへの願いが託されたのでしょう。
▲左=会津張子・赤べこ(福島県会津若松市/昭和初期)
右=津秦八幡宮の臥牛(和歌山県和歌山市)

 また、牛の郷土玩具の中には、瘡(くさ=腫瘍状のできもの)除けに効果があるとして求められるものも各地に見られました。特に、江戸時代から明治初期にかけて猛威を振るった疱瘡(ほうそう=天然痘)は、高熱にみまわれ、腫瘍状発疹が全身を覆う伝染病ですが、かつては疱瘡神が人にとりつくことで発病すると考えられていました。疱瘡神は、「断れない客」のようなもの。うまく神をもてなして軽く済ませてもらおうと、疱瘡神が好きな赤で彩色された玩具が病室に置かれたりもしました。「会津張子の赤べこ」などは、疱瘡に罹った時に出来る瘡(くさ=草)を牛に食べてもらい、早く全快するようにという願いが込められた造形です。

▲展示風景……尾崎清次氏の牛の絵
『育児上の縁起に関する圖譜全3巻』より
 大正末期の玩具研究家、故・尾崎清次氏から当館が寄贈を受けた数多くの資料の中にも戦前に作られた牛の玩具があります。小児科医であった尾崎氏は、昭和6年、『育児上の縁起に関する圖譜全3巻』(笠原小児保健研究所発行)を著し、収集した玩具の絵とともに一つ一つの縁起を付し、人々が玩具に何を求めていたのかを明らかにしておられます。この圖譜の中、「瘡(くさ)除け」を祈願する玩具として、「一文牛(京都府深草)」「四天王寺石神堂の臥牛(大阪市天王寺)」「高野寺内お牛さん(和歌山市)」「明泉寺の牛の絵馬(神戸市長田)」「日前国懸神宮内天神社の臥牛/津秦天満宮内麻為比神社の臥牛(和歌山)」の6種がとり上げられています。
 
「高野寺内お牛さん(和歌山市)」の解説には、「堂に瘡の治るように祈願し、奉納したる一体を借り来って小児の瘡(腫瘍状のもの)のある部を撫で、神棚に祀り置けば、瘡治癒すといふ。癒ゆれば一体を添へ二体として奉納す。之は贖物の遺風ならむ。種類数種あり、此地方にて安産の祈願に用ふるものと同一のものも用ゐらる。」とあります。
 
 牛形の瓦で撫でたから瘡(腫瘍状のもの)が治癒するなど、なんと無知蒙昧な!――そんなふうに眉をひそめて切り捨て、近代化には不必要な俗信だと日本人が過去に置いてきてしまったものが、展示室に並ぶたくさんの小さな牛の郷土玩具からは立ち上がってくるようです。
 本展では、そのような視点をまじえ、郷土玩具を近世的な造形としてお楽しみいただきたいと思います。






諸国牛のおもちゃめぐり〜牛の郷土玩具と天神さん〜


NO.61
民族楽器のライブ&ワークショップ          (2008.10.4 学芸員・尾崎織女)


 中庭をわたる涼風にのって金木犀の香が漂う季節を迎えました。暑かった夏の疲れもなく、皆さん、お元気でお過ごしでしょうか? 
 6号館で開催中の特別展『音をあそぶ』に関連して、展示中の民族楽器の中から、何かめずらしい音色をご紹介したいと思い、今回は2回にわたってライブを計画致しました。
▲親指ピアノ・ムビラの演奏会風景  ▲参加者は、奏者からムビラの奏法を習う・・・♪
 先月21日は、こちらでもご報告させていただいたように、「ジンバブエの親指ピアノ・ムビラの音色」でお楽しみいただきましたが、本日は、地元播州を中心に演奏活動を展開中のアンクルン愛好者グループ「竹和(ちくわ)」の10名の奏者をお迎えして、「インドネシアの竹楽器・アンクルンの音色」を開催しました。
 代表の福本聖美さんと日本玩具博物館との出会いは2001年のこと。夏の特別展『アジアのおもちゃと造形』に関連した催しとして、アンクルンの奏法を学び、みんなで演奏を行うワークショップをもっていただいて、子どもからも大人からも大変好評をいただきました。あれから7年間に、福本さんは合奏団を立ち上げ、暮らしの中で楽しむ音楽づくりに、メンバーの皆さんと取り組んでこられました。

 青空は高く、暑いぐらいに秋の陽射しが照りつける午後、祭太鼓の練習も聞かれる季節感の中、アンクルンの演奏が始まりました。アンクルンは、1楽器1音で、複数者がそれぞれ担当音を持って音を出し、メロディーや和音をつくる楽器です。竹筒を揺らすことで、水平になった竹の共鳴器に筒がぶつかって音を響かせるのですが、複数のアンクルンが同時に揺れると、柔らかいその音は、空間に渦を巻いて広がっていくようです。
 「竹和」の演奏形態は想像以上に大規模で、ランプの家にぎっしりと楽器が並びました。「オイナニ ケケOINA NI KEKE」や「チャチャ マリチャCACA MARICA」とタイトルされた軽快で明るいインドネシア民謡や「浜辺の歌」「埴生の宿」「小さい秋みつけた」などの懐かしい日本の楽曲、加えてノリのよいラテン系の楽曲も演奏していただき、手拍子で参加した会場は非常に盛り上がりました。
 福本さんのご指導で、参加者全員がアンクルンを手に音遊びを行った後、持っている楽器を皆でゆらして和音をつくり、その和音を伴奏に「夕焼け小焼け」を合唱した時には、渦をまいた音色が博物館の空をめざして上っていくようでした。
▲アンクルンの演奏風景 ♪茶色のこびん ▲福本聖美さん、アンクルンについて解説中。

 「楽しい時を過ごすというのはこういう体験をさすのですね」「思い出に残るひとときでした」「思いがけず、美しい音楽に出合うことが出来て今日は幸せでした」・・・・・・。そんな感想を残して館を後にされる来館者も多く、スタッフ一同、とても嬉しく思いました。大掛かりな舞台設営から細やかな演奏、楽しい音づくり、すべてを笑顔でまとめ上げて下さった「竹和」の皆さんに心より感謝申しあげます。
 このような催しは、企画展にあわせ、季節にあわせて、今後も開催していきたいと思っています。

NO.60
『世界の仮面とまつりの玩具』展オープン!          (2008.9.18 学芸員・尾崎織女)

 1号館で『世界の仮面とまつりの玩具』展が始まりました。世界約40カ国から祭礼などに登場する仮面を一堂に集め、アジア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカと地域ごとに展示しています。ユニークな顔と表現力の強い表情、生命力に溢れた造形が一堂に集う展示室は、あっちを見てもこっちを見ても、負けず劣らず賑やかです。
 そんな中で、地域を巡りながら、同じ題材の仮面を比べてみるのも面白いと思います。例えば、角の生えた鬼、目が三つ以上ある神様、目をむき、口を大きく広げた人間・・・。世界中の人たちが創造した姿には共通のイマジネーションがあるのだと感心する一方で、民族によって、なんと表現の仕方が違うのだろうか、と驚かされたりもするのです。

 今回、展示作業を進める中で、アジアの仮面の中に、猿をモチーフにしたものが多いことにあらためて気付かされました。インド、タイ、カンボジア、ラオス、インドネシア、中国、日本・・・・、アジア中の子ども達に、猿はとても人気があったのです。

ハヌマーン面(インド) ハヌマーン面(タイ) ハヌマーン面(カンボジア) ハヌマーン面(インドネシア)

 インドをはじめとするヒンドゥー教文化圏では、それら猿の仮面は「ハヌマーン」と呼ばれています。
ヒンドゥー教の聖典ともなる『ラーマーヤナ』の中で、ハヌマーンは猿族の長、すぐれた戦士、弁舌家として大活躍をするのです。
・・・・・・・・・ハヌマーンは、猿族の王・スグリーヴァが、その兄ヴァーリンによって王位を追われた時、猿王スグリーヴァに従って王都を出て行きます。ヴィシュヌ神の化身であるラーマ王子は、ハヌマーンに助けを請われてヴァーリンを打倒。スグリーヴァは、めでたく王位に戻ることになります。その恩返しにと、ハヌマーンは、ラーマ王子の妃、行方不明のシータ姫の捜索に乗り出します。羅刹王ラーヴァナの居城、ランカー島にシータ姫を見つけ出したハヌマーンは、これをラーマに知らせ、猿族を率いて、ラーマに協力するのでした。・・・・・・・・・

 『ラーマーヤナ』はインドばかりか、他の東南アジア諸国でも広く聖典として尊ばれ、ハヌマーンは親しみやすい英雄として子ども達の尊崇をも集めてきました。
 1974年には、白猿ハヌマーンが、『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』という名の劇場映画の中に登場し、当時タイで人気を博したことはご存知でしょうか。この映画は、「ウルトラマン」の円谷プロとタイのチャイヨー・プロダクションの共同制作で、2001年にリバイバルを果たしています。その後、白猿ハヌマーンは、『ハヌマーンと5人の仮面ライダー』の中で、仮面ライダーとも共演しています。アジアの猿族の長・ハヌマーンは、ヒンドゥーの聖典から飛び出して、現代の暮らしの中に息づくヒーローだということがわかります。

 東南アジア各地で作られたハヌマーン面を見つめた後に、中国に目を転じてみると、ハヌマーンにも匹敵する猿の英雄がいました! 孫悟空です。孫悟空は中国四大奇書のひとつ『西遊記』の英雄で、私たち日本でも広く親しまれてきた愛すべきキャラクターですが、東アジア一帯では「齊天大聖」の名で信仰を受けています。ハヌマーンの隣に孫悟空を置いてみると、造形感覚の違いをこえて、二つのキャラクターが結びついているように思えてきます。実際に、ハヌマーンが孫悟空のモデルになったとする説を唱える方もあるのですが、ご興味のある方はご一読下さい。『孫悟空の誕生〜サルの民話学と『西遊記』』(中野美代子著・玉川大学出版部・1980年刊)
 私たちの国ではどうでしょうか? 猿は全国の日吉神社で、神の使いとして尊崇されてきた動物。祭礼の日の露店に並ぶ張子面の中で、猿は、稲荷神の使いである狐とならんで最も多く作られた動物面といえます。

孫悟空の面(中国) 猿面(日本)

 世界各地のユニークな仮面における色と形の違いを比べながら、文化の交わりと文化の独自性・・・その両方を感じ、わくわくと楽しくなっている今日この頃です。
 6号館の『音とあそぶ〜世界の発音玩具と民族楽器〜』も今しばらくは開催中で、仮面展と合わせて世界各地の造形感覚の素晴らしさに浸っていただけるでしょう。日本玩具博物館は、豊かな民族色に彩られる秋を迎えています。

 関連企画展

世界の仮面とまつりの玩具



NO.59
夏休み最後の日曜日             (2008.8.31 学芸員・尾崎織女)


 今日は夏休み最後の日曜日でした。先週来、NHK姫路放送局が1号館の『汽車のおもちゃ展』を、神戸放送局が6号館の
▲ 男の子達に人気の電車の玩具
『音とあそぶ展』を取材して下さり、相次いで展覧会の様子が放送されたこともあってか、この土日は、兵庫県内だけではなく、ご遠方からの来館も多く、合計600人ほどの家族連れで賑わいました。

 真っ黒に日焼けした子どもたちは、夏休み最後の日曜日を精一杯楽しもうとキラキラした目をして、1号館の扉を開けます。
 男の子たちが、「わぁあーー!!すごいっ!」と駆け寄るのは、汽車のおもちゃの展示です。硝子ケースの下段の展示を見上げるほどの小さな子どもが、車掌さんの口ぶりを真似ながら、熱心におもちゃを見ている風景なども、今日はたくさん目におさめることが出来ました。「大好きな汽車のおもちゃがいっぱいあるので興奮してますね。こんなに喜ぶとは!」とお父さんも、わが子の熱心な様子にオドロキ顔。私たちにとっても、小さい子達が、素朴な汽車のおもちゃをこんなにも好きだとは・・・・・・まったく、想像を超えていました。

 講座室では、6号館の『音とあそぶ』にちなみ、今日も午前と午後、「鳴くニワトリさん」「ぶんぶん独楽とストローの笛」の手づくり教室を開催しました。「こんなん作りたい人、この指とまれー!」と声をかけると「僕も作りたい」「私も」とみんな積極的です。コッコッコッコ、コケコッコー♪ ブーブー、ピイピイ・・・♪ ブーン、ブーン・・・♪ 作ったおもちゃを嬉しそうに鳴らしながら展示室を歩き回る子ども達、6号館に設置している民族楽器で合奏を始める家族たち・・・・・・。
 展示品の音を聴く解説会も開催しました。小さな子たちも大人に混じって民族楽器のユニークな音色に耳を傾けます。スロバキアの「ラトルトラップ」のはじける音には笑い声をたてて、チリの「雨の棒」の静かな音には耳をすませて、マダガスカルの哀調のある「竹オカリナ」のメロディーにはじっと目を閉じて・・・・・・。
 こうして6号館もまた、今日は、この夏休みで一番、賑やかな一日になりました。

▲ 講座室にて音のでるおもちゃ作り ▲ ニワトリさんが鳴いた! ▲ 民族楽器で合奏だ!

 出口の扉を閉じるとき、「ああ、面白かった」「おかあさん、また来たい」「お父さん、今度いつ来る?」というような声が度々聞かれ、受付スタッフの顔にもとびきりの笑顔がこぼれます。「自然に子どもたちの口をついて出る、そんな感想が一番嬉しいですよね!」

 私たち博物館スタッフも汗まみれになった夏休み。今しばらくは夏の展示が続きますが、ひと足先にやってきた新しい季節を追いかけて、今度は、民族色豊かな秋のおもちゃ館を準備していきたいと思います。



NO.58
姫路市東山の七夕まつり訪問        (2008.8.8 学芸員・尾崎織女)

▲Yahoo!地図サイトより姫路市播磨灘沿岸部

 播州地方も節句は旧暦でお祝いする地域が多く、一般に8月7日が七夕まつりです。度々、七夕の話題で恐縮ですが、6日と7日、久しぶりに地元の七夕を見ておきたいと思い、姫路市の播磨灘沿岸地方に伝わる七夕飾りの見学に出かけましたので、少し、ご報告させていただきます。

 学芸室からNo53でご紹介した朝来市生野町だけではなく、姫路市の播磨灘沿岸地方でも、2本の笹竹の間に細い竹やトキワススキを渡して、紙衣「七夕さんの着物」を飾ります。 これは、明治時代初頭には行われていた様式で、「子どもの初七夕に<七夕さんの着物>を飾れば、その子が一生、着るものに不自由しない」とされてきました。
 昭和42年、当館の井上館長がその存在に目をとめ、全国に紹介したことで広く知られるようになったものですが、少なくなったとはいえ、この時期、白浜、八家、的形、大塩などの町々を訪ね、中庭を覗き込むと2本の笹飾りと「七夕さんの着物」がゆらゆらと風にゆれる風景を見ることができます。





▲大塩・柴田家の七夕飾り2008 ▲大塩・黒田家の七夕飾り2008 ▲的形・立見家の七夕飾り2008

 6日に訪ねたのは姫路市東山の家永家。地元のテレビ局も季節の話題として取材にこられており、カメラの前で、浴衣を着た小さなお孫さんたちが、♪ささのはサラサラ・・・♪と歌う風情もかわいいものでした。家永家では、どんなことがあっても、どんなに忙しいときでも、欠かさず、七夕飾り続けてこられたといいます。「七夕さんの着物」の中には、昭和40年代のものも混じり、家の歴史を刻んでいます。
 中庭に面して窓前に立てられた二本の笹飾りには、たくさんの短冊や切り紙細工がさげられ、渡した紐(本来はトキワススキ)を三段にして時代も様々な「七夕さんの着物」が並びます。東山の着物は自家製で、前身ごろを切り離して帯を締めるところが、他の地域と異なります。
▲東山・家永家の七夕飾り2008 中庭から  ▲東山・家永家の七夕飾り2008 部屋から
     「たなばたさま」の歌を合唱する子どもたち

▲東山家永家・七夕の供え物   ▲東山家永家・七夕さんの着物・・・昭和40〜50年代のもの


 夜のまつりとて、提灯はつきものですが、豪華な岐阜提灯に火を入れて七夕を祝うところには、祖霊を迎える心積もりが感じられます。播州でも七夕を「七日盆」と呼ぶ地域が多いことから考えても。
 笹飾りの窓下には、小机がすえられ、西瓜、南瓜、胡瓜、真桑瓜、苦瓜、玉蜀黍、桃、葡萄などの果物や野菜、茄子で作った牛、素麺、ホッサンダンゴなどが置かれます。七夕に実りはじめたハツモノの野菜を供える風習は、播州はもちろん、全国的に広く見られるものですが、興味深いのは、東山の場合、小机の供え物とは別に、二本の笹飾りの根元に、ハツモノの野菜を括りつけること。稲、さつま芋、大豆、里芋、ホオズキなど、みんな葉や茎の部分を一対ずつ取ってきて束にしたものです。「七夕さんはハツモン喰い」と、播州ではよく言われていますが、秋の実りを天の二星に願う風習とも考えられます。

 伝承の七夕飾りをたてる家は少なくなっていますが、こうして、地道に続けて下さる方があるから、今にその姿が伝わり、また、美しい風景と楽しかった家庭での思い出が幼い子どもたちの記憶に焼き付いて、次代へと受け継がれていくのでしょう。
 日中気温が37度。テレビ局のカメラマンは、Tシャツの色が変わって、今、海から上がってきたばかり・・・というように、汗でびしょ濡れになりながら撮影されていましたが、「家庭の温かさのある、それでいて涼しげな画が撮れた」と忙しく局へ戻っていかれました。

 一夜の星祭り・・・7日の朝には、どこの家も「七夕さんの着物」や笹飾りを片付けてしまわれます。昭和30年代初め頃までは、川への流すものだったのですが・・・。
 たった一夜の二星のめぐり合いのために、心をつくして、七夕棚をこしらえ、星をまつる。提灯のあかりに浮かび上がる七夕飾りをうっとりながめ、はなやいだ表情で空を見上げる人々・・・。毎年繰り返されるその地道な行為と喜びが文化をつくるのだということを心に刻んだ七夕まつりでした。




NO.57
未来に生きる子どもたちのための博物館        (2008.8.5 学芸員・尾崎織女)


 猛暑お見舞い申しあげます。例年以上に厳しい暑さの日々が続きますが、お元気でお過ごしでしょうか。

 皆様もニュースなどでご存知のように、地方自治体の博物館・美術館をはじめ、文化施設を取り巻く状況は非常に厳しくなってきています。短期間に、維持費のかかる大きな施設をつくり過ぎる危うさを誰もが感じていながら、それを留めることができずにここまできてしまい、今、慌てふためいている・・・そんな感じです。
蓮の花が来館者を迎えています。
 日本玩具博物館の開館は1974年。その頃、我国には、玩具を展示する博物館は、岡山県倉敷と岐阜県高山に郷土玩具館として2館あるだけ。いずれもプライベートコレクションを展示する私立の玩具博物館でした。
 井上館長が繰り返しお話ししてきたように、1970年代、80年代は、まだまだ、玩具(おもちゃ)の文化財としての位置づけが低く、歴史資料として、教育資料として、また民俗資料として、それらが博物館に展示されることもほとんどありませんでした。
 私が日本玩具博物館に受け入れてもらった1990年ですら、県や地域の学芸員研修会などに参加してご挨拶をすると、「え?玩具ですか? 玩具を研究するんですかぁ?」と、ちょっとあきれた表情で遠ざかって行かれたり、「玩具の展示ねぇ、まあ、頑張って・・・。わからないことがあったら何でも・・・」と微妙なトーンで名刺を下さったりしたものです。
 展覧会依頼もテーマパークや百貨店からいただくことの方が多く、博物館梱包で届いた展示品の状態を確かめながら開梱していると、担当者から「なんと、大げさですね。玩具のくせに美術品みたいですねぇ」と、またここでもあきれた顔をされたりしました。 
 <たかが玩具><どうせ玩具> 繰り返される言葉にならない言葉に出合う度、<玩具は立派な文化財だと胸をはってのぞみたい>と思いました。

 博物館施設がものすごい勢いで建設された1980年代から90年代には、「玩具」をテーマにした博物館も増え、経営母体や展示内容、運営理念や趣旨などの違いを度外視すれば、現在、50館近い施設があるのではないでしょうか。様々な年齢層に喜んでもらえるから・・・と考えるからでしょうか、地方自治体の博物館も、こぞって特別展や企画展の中に玩具を取り上げるようになりました。
 このようにたくさんの玩具展が行われる状況を私たちは嬉しく思ったり、疑問に思ったりしながら数年間を過ごしてきました。やわらかく、わかりやすいテーマに流れる時代風潮に迎合するように、安易で悲しくなるような『玩具展』が相当に増えたことも事実です。

 「ミューズランド」「体験型ミュージアム」「ハンズ・オンのミュージアム」「ミュージアムのアウトリーチ」「対話型ミュージアム」・・・・・・博物館が目指すあり方は20年ほどの短い間にどんどんと変転を重ねました。自治体が次々に博物館建設を行うために、新しいイメージを必要としたからではないでしょうか。カタカナ表記の「おしゃれで新しいイメージ」―――それは、まるでファッションです。
 豊かな時代にたくさん買い込み、豪華さと数の多さを隣家の住人に自慢してみせていたアクセサリーも、生活が苦しいのだから仕方ない、チャラチャラしたものは売り払ってしまおう……―――博物館施設が統合されたり、廃止されたり・・・・・・そんなニュースを聞く度に、博物館・美術館は奢侈品ではないはず…と悲しくなってしまいます。
▲日本玩具博物館ファンだという姉弟

 博物館活動の第一は資料の収集保存、第二が資料の調査研究、第三が展示普及です。活動の第一に資料の収集保存活動があげられている以上、博物館は、今の人たちのためにだけあるのではなく、未来に生きる人たちに文化を伝えるための施設でもあるはずです。
 十数年前、ドイツを訪れた折、ドレスデンの古い宮殿内にある美術館で、地元の方から聞かされた話が心に残っています。戦争による財政の逼迫を解消するため、市当局が館蔵品の売却を提案したとき、食べていくのもやっとの状態であるにもかかわらず、市民たちは「所蔵品は私たち市民のものである。これらを売ることは、ドレスデンの魂を売ることに等しい」と猛反対し、美術館を守ったというのです。それは、美術館が守るべきものを有し、美術館が町のアイデンティティー形成を担ってきたことの証だと思いました。

 ヨーロッパにおいて、博物館・美術館を有することは市民の権利であり、いつも展示を観に行かなくても、講座に参加しなくても、文化保存の機能をもった施設が在ることに意味があると考えるのです。私たちは、見せかけのよいファッションを受け入れることには積極的でしたが、博物館を民主主義社会の市民の権利として大切にし、また義務として未来に生きる子どもたちのために守っていこうとする意識が希薄でした。それは、博物館の成り立ちの違いや政策の違いがあるからですが、一方で、市民のアイデンティティー形成にまで力を果たそうという視点にかけた私たち博物館関係者の責任かもしれません。

 けれども、私は、地方自治体立であれ、企業立であれ、私立であれ、私達のような個人立であれ、博物館の多くの業務を必死にこなし、未来に文化をつなぐ仕事に誇りをもって誠実に頑張ってこられた多くの博物館スタッフを知っています。
 先日も、親しくさせていただいている大阪府立大型児童館ビッグバンの玩具コレクション担当者から、「ホームページの中に、ビックバン所蔵の玩具コレクションのページを作ったので広く紹介してほしい。」とご連絡をいただきました。
 一度粉々に壊れてしまった植木鉢をもとに戻すことが難しいように、一度切ってしまったら、復元不可能なことがたくさんあるというのに、積み上げてきた目に見えないものが、財政逼迫の名のもとにバッサリ捨てられてしまいそうな現状に、私たちは何をすべきか・・・と話し合ったりもしました。
 大阪府立大型児童館ビッグバンはいわゆる博物館施設とは異なりますが、数多くの貴重な近代玩具資料を所蔵しておられます。展示施設が広くない現状からも、ネット上でもっと多くの資料を公開できるページを・・・とご用意されたそうです。
 <未来に生きる子どもたちのためにも、玩具を文化財としてきちんととらえ、彼らが安心して住める家を築こう> これまでの彼女の頑張りからも、そんな心の声が聞こえるようでした。大阪府立大型児童館ビッグバンの新しく開かれた「おもちゃコレクション」のページを一度、ご訪問なさってみて下さい。
http://www.bigbang-osaka.or.jp/toy/index.html




NO.56
虫送りのサネモリ人形〜市川水系の村々を訪ねて〜   (2008.7.28 学芸員・尾崎織女)

 去る土曜日、夏の伝承行事「虫送り」を見学させていただこうと、日本玩具博物館のある香寺町を北へ、市川沿いの国道をさかのぼって神河町赤田の集落を訪ねました。
▲棚田の道をサネモリと松明の行列が行く
     (神河町赤田地区 2008)



 ♪イネノムシャ ゴーシャラク サネモリァ サキダテ ヨロズノムシャ オトモセー オトモセー♪
(※「稲の虫は後生楽 実盛は先立て 万の虫(武者)はお供せよ」の意か)

 村人は総出で、お経のような言葉を口々に節をつけて唱えながら、70本の松明をもって棚田の道を行進していきます。麦わらで作られたサネモリ(実盛)と家来の人形が先立ち、太鼓と鉦の音が周囲の山々に木霊する山里。星が降る夏の夜に繰り広げられる美しい光景です。稲の実りに害をなす虫たちを火に集めて、村境の川べりまで追っていくと、松明をまとめた大きな火でサネモリ人形と虫たちを燃やします。サネモリたちのあの世での安楽を願う心から、唱えごとの中に「後生楽」の言葉が繰り返されるのだと思います。
 サネモリ人形を先立ちにする虫送りは、九州から中国、近畿、中部東海地方にも広く見られましたが、いずれも農薬の普及とともに廃絶し、今では行われる地域も少なくなりました。最近になって、村おこしムードの高まりとともに復活を果たしたところもあります。赤田地区は平成17年から、地元の古老や郷土史家の話をもとに、有志が中心となって伝承の再現に取り組んできました。

 ここ数年、夏土用の頃になると、播州各地の虫送りに出かけ、サネモリ人形の有り様を見学してきました。たとえば、福崎町東田原大門では稲わら製のものが作られ、神河町各地では麦わら製で白い和紙の衣装をつけます。市川町甘地では木製の胴部に粘土などで飾りつけが施され、地区によって様々ですが、いずれも騎乗した姿。神河町赤田地区のように家来を従える場合もあります。


▲麦わら製サネモリ人形 2008
    (神河町赤田地区)

▲稲わら製サネモリ人形 2008
   (福崎町東田原大門地区)
▲木製サネモリ人形 2004
      (市川町甘地地区)

 では、サネモリ人形とは何でしょうか? 一説には、平家の武将・斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)をかたどったものだと言われています。木曾義仲軍との合戦の折、別当実盛は、騎乗していた馬が稲株につまずいて転倒し、そこを討たれて戦死してしまいました。そのことを怨んだ実盛が稲虫となって実りをさまたげるという伝説が各地にあり、ウンカがサネモリ虫と呼ばれたりもしました。サネモリ人形は、万の虫や悪霊を統べる依り代のようなものと考えられ、行列の先立ちとなったのです。
 もう一説には、サネモリの名の<サ>が「サオトメ」「サナエ」「サノボリ」などに共通する<サ>をもつことからサネモリを田の神と関連付ける考え方もあります。また、神の乗り物は古来、馬であると考えられてきました。

 ここに、私たちがかつてとらえていた「人形」というものの性格と役割が凝縮されているのではないでしょうか。
     神の姿を表現するもの、
     歴史的な人物の性格を再現するもの、
     人間の目には見えない霊魂の依り代となるもの・・・・・・
 今、現実世界では見ることの出来ない存在をかりそめに表現するのが人形であるなら、長くこの世にとどまることが出来ません。サネモリ人形は焼かれることで、彼岸へとわたっていくのです。
▲子どもたちの手に手に松明が渡されていく
   (福崎町大門地区 2008.7.20)


 18年前に復活を果たした福崎町東田原の大門地区の虫送りでは、子どもたちが主役でした。ドンドンと太鼓を打ち鳴らすのも、♪サネモリサマノゴジョウラク、イネノムシャオトモセー♪ と元気な声で唱えるのも、松明を掲げ行列を作るのも、みんな子どもたちの役目です。
 子どもの地域行事への参加は、人口の減少など様々な問題を抱えていますが、「村落社会の行事を次代へ伝承するというより、むしろ、子ども達が足元の文化を実感するという意味で大切だ」と、大門の方々は話してくださいました。

 村境の川べりや池の端で松明をまとめた大きな火にサネモリ人形を燃やすとき、赤田でも大門でも、それまで賑やかに大騒ぎしていた子ども達が急に押し黙り、じっと燃えゆく人形の有り様を見つめていました。
 市川町甘地地区では、煙になって天にのぼる虫の霊を弔うように、カン、カーンと余韻を残して鉦が打ち鳴らされます。見えないものの存在がふっと感じられる瞬間、空に向って両手をあわせる子どももありまし
た。
▲焼かれるのを待つサネモリ人形
(神河町赤田地区 2008.7.26)

 私達の祖先は、自分たちの生活に不都合を与える自然に対してどのような感情で向き合ってきたか、「人形」という造形をどのようにとらえ、人形にどのような役割を与えてきたか、霊を弔うときの音とリズム、余韻にはどのような感性を働かせていたか・・・・・・、地域の伝承行事への参加は、たとえばそのようなことを体験的に実感し、私達を育んだ土壌を確認するまたとない機会だと思います。今や大人にとっても・・・。
 自分を守り育ててくれた社会環境と、自分の価値観を育んでくれた文化への信頼が、子どもたちの将来を根元で支えてくれると思うのです。我々の子どもたちが、文化的な根無し草にならぬよう、文化的無国籍感に苦しまぬよう、博物館施設は、これまで以上に地域性や民族性を大切に考えていかなくては、と思います。今、現実に博物館施設には、玄冬の厳しい風が吹き荒れていますが、文化の保存・伝達という本来の役割を忘れたくはありません。

 播州の村々の虫送り行事への取り組みと、その美しい夜の風景は、屋根のない広い舞台に繰り広げられる稲作文化の動態展示ととらえることもできます。
 ご興味をもたれた方には、7月、市川水系の村々に点在するサネモリさんの「虫送り」行事を一度、体験していただけたらと思います。






NO.55
鶏の鳴き声をたてるおもちゃ〜『音とあそぶ』展より・その2〜    (2008.7.21 学芸員・尾崎織女)


▲摩擦太鼓(左=ブラジル/右=コロンビア)
 摩擦太鼓(Friction Drum)という楽器は、日本ではあまり親しみがないのかもしれません。太鼓といえば、筒型の共鳴器があって、その片面あるいは両面に獣皮、魚皮などの膜を張ったもの。そこを手やバチで叩いて音を立て、リズムを刻む楽器、といえばいいでしょうか。摩擦太鼓は、そうした太鼓の膜の真ん中に、直接、棒や紐をくくりつけ、棒や紐をこすることによって音を響かせる楽器です。ヨーロッパや中南米などでは広く親しまれているもので、春を迎えるカーニバルの折には、手に手に摩擦太鼓をもってリズムをとる人たちをテレビの画面などでも観ることがあります。
 ペルーには、クィーカと呼ばれる摩擦太鼓がありますし、コロンビアには、マラーナと呼ばれる瓢箪製の摩擦太鼓があり、太鼓膜から突き出した棒をこすると、ヴーヴー、ヴヴォーッと、豚の鳴き声に似た音を響かせます。展示室には、これらの他、スペインやルーマニアからやってきた楽しい形の摩擦太鼓の玩具を展示しています。
▲リオデジャネイロの鳴く鶏(ブラジル)


 さて、もう今から10年以上前のことですが、日本玩具博物館は、日伯修好100周年記念行事(1995年度)の一貫として、ブラジルの三都市(サンパウロ〜クリチバ〜リオデジャネイロ)を巡回して、『日本の伝統玩具展』を開催したことがありました。各都市の展示準備やワークショップの開催、展示撤収のため、井上館長と交代で渡伯したのですが、その折々に、摩擦太鼓を模した玩具を入手しました。
 ブラジルのかつての首都、サルバドールの露店では、ヤシの実を共鳴筒にした小さな摩擦太鼓の玩具が並んでいましたし、リオのカーニバルで有名な町の玩具屋さんでは、トキの声を告げる鶏の玩具が売られていました。厚紙の筒の片面に紙膜を張って、その紙膜の中心に穴をあけて紐を通し、筒に飾りつけて鶏らしく造形してあります。指に黄色い松脂をつけ、リズムよく紐をこすると、コッコッコッ、コッ、コケコッコーッと、びっくりするぐらい本物らしい鳴き声を立てるのです。音をお届けできなくて残念。発音の仕組みは、糸電話と同じといえば、わかりやすいでしょうか。
▲『Folk toys』に描かれた鳴く鶏
(チェコ)


 この鳴き声をたてる鶏の玩具ですが、海外の文献を調べていたら、チェコ・プラハで出版されたEmanuel Hercik著の『Folk toys/Les jouets populaires』(1951年刊)の中に、リオの鶏と同じ仕掛けのチェコ製の玩具が描かれ、イースターの鶏として紹介されています。キリストの復活を讃え、春の訪れを祝うイースター当日、人々は仕事を休み、教会では鐘を鳴らすことを控えることになっていました。鐘は時刻を知らせる役割を果たしていましたから、人々は子どもたちにトキをつくる鶏のおもちゃを持たせ、教会の鐘の代わりに時間を知らせて回る役割を担わせました。
 数年前、チェコを旅行された当館友の会の方を通じて、このチェコの鶏もコレクションに加わっています。

▲子どもたちが作った紙コップの鳴く鶏(2006年夏のワークショップで)
 さて、この鶏たちを真似た玩具を子どもたちと一緒に作れないものかと思案し、紙コップに紐を通した「鳴く鶏」をご紹介したのは、10年ほど前のことになります。小さい子にはもちろん、大人にとっても、「こんな簡単なことで、こんなに面白い音がでるのか?!」という驚きも手伝って、非常に人気のあるワークショップの題材となりました。紐をこするための松脂はなかなか入手できないため、濡らした布片や濡れティッシュで紐をはさんでこすって もよい鳴き声を奏でてくれます。
 何十人もの子どもたちと「鳴く鶏」を作れば、講座室は鶏小屋のような賑やかさです。今夏のワークショップでもとりあげていますので、ご興味のある方は、ぜひお訪ね下さいませ。
 

 

NO.54
ぶんぶん独楽がまわる音 〜『音とあそぶ』展より・その1〜     (2008.7.15 学芸員・尾崎織女)


 『音とあそぶ』展会場で、たくさんの民族楽器が居並ぶ中、ひときわ地味な姿で注目をあびている一群があります。「これ、
▲アプレイアの壺に書かれた
イユンクス 『アドニスの園』
(マルセル・ドゥティエンヌ著
/せりか書房)より
なんですか?」と来館者から質問を受けることも度々です。
「ぶんぶん独楽です。昔、遊ばれたことありませんか?」
 ぶんぶん独楽は、円形や楕円形の板片などに穴を開けて紐を通し、紐の両側を持って、回しながら音を出す簡単素朴な玩具。筆者も、子ども時代、ボタンの穴に紐を通してブーン、ブーンと回し遊び、その音の面白さと、紐がまるでゴムのような弾力をもってくる不思議さに夢中になった思い出があります。ここまでお話しすると、「ああ、懐かしいですね。」と、たいがい、来館者はそうおっしゃられます。
 ただ、このぶんぶん独楽が古くから世界各地で回されてきたことについては、ほとんど知られていないのではないでしょうか。

 古代ギリシャの時代、ぶんぶん独楽は「イユンクス」と呼ばれ、魔女が男性を誘惑するときに使う秘具でした。回転とともに唸り、楽器のように様々な音色を発するイユンクスは、イユンクスという鳥(アリスイ)が、求愛の時に鳴く声に似ていることから、その鳥の名をもらったといわれます。

 北アメリカのイヌイットやグリーンランドの人々においては、セイウチの牙やアザラシの骨などから、ぶんぶん独楽(ブザー)を作り、また、ブラジル・マッットグロッソ州に住むクイクロ族は、ヒョウタンの実
▲上二つは、モンゴルの羊の骨製ぶんぶん独楽
 真ん中は、ブラジル・アクレ州、カンパ族の骨製ぶんぶん独楽、
 下は、グリーンランドのセイウチの骨製ぶんぶんゴマ
                  (いずれも1990年代)

殻などを円形に切り取ってこれを作りました。怖い獣を遠ざけたり、悪魔を追い払ったりする道具と考える民族があれば、また、病気の治療に使用する秘具と考える地域もあったようです。雑音性に満ちたこの不思議な音には、目に見えない邪気や悪霊の類を退散させる霊力があると考えたのでしょう。

 江戸時代の日本では、「松風独楽」の名で親しまれていました。松風とは、松林を風が通りつけるときの音をいい、寂しい海岸沿いの風景を連想させるもの、茶の湯においては、釜の湯がたぎる音を松風と表現したりもするそうです。遊び道具として愛されるぶんぶん独楽の音色を風流な音に結びつけたのは、江戸文化の粋な心というべきでしょか。

 ぶんぶん独楽が、いつ、どこの国で誕生し、どのように伝播したか、あるいは同時多発的に世界各地で作られ始めたものなのか、このことを明らかにするのは非常に困難です。また、まじないの道具であったぶんぶん独楽が、どのような過程で玩具の世界へと受け継がれたのか・・・・・・いずれにしても、長い歴史と音に対する文化を秘めたこの小さな音具が、子どもの玩具の世界で生き続けているというのは、本当にすごいことだと思うのです。
▲上二つは、ブラジル・アクレ州、カンパ族のぶんぶん独楽
下は、ネパール・ゴルカ郡の小学生が作った木製ぶんぶん独楽
             (いずれも1990年代)

 そして、ぶんぶん独楽は、今も遊ばれ続けています。旅行先のタイやマレーシアで、ペプシの王冠を叩いて板状に伸ばしてぶんぶん独楽を作り、嬉しそうに回して遊ぶ子どもたちに出会いました。日本の子どもたちも、この玩具が大好きでした。回して音が出るようになるには、糸を緩めたり引っ張ったりするときの力加減やリズムにちょっとしたコツが要りますが、そのコツさえつかめば大丈夫!

 長い歴史と国境を越えて、広く兄弟姉妹をもったこの小さな玩具だからこそ、私達はこれを遊び伝えていきたいと思うのです。
 今夏のおもちゃ作り教室でも、アイスクリームの木のスプーンを使って、ぶんぶん独楽を作ります。コツをつかんでみたい方は、ぜひご参加下さいませ。






NO.53
生野の七夕まつり訪問                (2008.7.7 学芸員・尾崎織女)


 新暦七夕、銀山の町として知られる生野町(兵庫県朝来市生野町)を訪ねました。この町には、「七夕さん」と呼ばれる紙衣(七夕人形)を飾る風習が伝わっています。日本玩具博物館は、生野町口銀谷の旧家の土蔵に眠っていた明治時代製と思われる6対と4枚の七夕さん、それから明治42年、奥銀谷で製作された1対など、美しい千代紙で作られた資料を所蔵しています。

    

 学芸室からNo.2でも一度、ご紹介しましたが、生野の七夕飾りは、短冊、投網、輪つなぎなどの切り紙細工を飾った2本の笹竹の間に苧ガラや細い竹竿を渡し、いくつもの「七夕さん」をかけて飾ります。数多い時には渡す苧がらを2段、3段と増やしていきます。そこに床机を出して、茄子や胡瓜、ホオズキ、南瓜や西瓜などの野菜を供え、天の二星をまつるもので、このような構図の七夕飾りは、生野や播磨灘沿岸地域以外には見られない独特の形態です。初節句を迎えた子どものために「七夕さん」を祝うとその子が生涯にわたって衣装に不自由しない、あるいは裁縫が上達するとして盛んに飾られたのは、生野については昭和初期頃までのことでしょうか。
口銀谷 井筒屋の七夕飾り 2004
 2003年の七夕に生野を訪ねたときには、こうした七夕飾りを行う家は一軒も見つけられず、大正生まれの婦人方にお伺いしたお話によって往時の有り様を想像するのみでした。それが、七夕文化研究会のメンバーとともに訪問した2004年には、公民館やふれあいセンターなどで地区ごとに高齢の方々が集まって楽しまれる七夕会があり、その場にたくさんの「七夕さん」が飾られることを知りました。帰り際、生野の「七夕さん」はとても素晴らしいものだから、町を愛する皆さんの力で復活を!と、お願いしたことでしたが、以降、町並保存と町の活性化を推進する施設、それから、郷土愛にあふれる方々のお力によって、年を追うごと、生野らしい七夕さんがよみがえってきたのです。

 本年は、これまでで最もたくさんの「七夕さん」を飾る風景に出合うことが出来ました、町の老若男女がとびきりの笑顔で我が家の飾り付けを楽しまれている様子に接し、またたくさんの方々に七夕をめぐってのお話を伺い、心がおどる一日でした。
 江戸時代には、幕府の財政を支え、明治以降は日本の近代化を支え続けた「銀」の町は、往時の隆盛をとどめる民家が重厚な町並を形成しています。本来、生野七夕は旧暦7月6日から7日(8月七夕)にかけて祝われ、二星をまつる棚やしつらえは、中庭に面した縁側で行うのが習いでしたが、今は、路地に面した表に立てられています。その理由ついて、復活の中心になった方々は、「行き交う町の人同士、日常とは違った風情を楽しみ、また生野を訪ねる方々との一期一会を感じ合いたいから・・・」と、話して下さいました。それは、まさに、屋根瓦と白壁の町並を舞台とした軽やかな七夕の動態展示だと思います。周囲の山から市川に向けて風が渡り、「七夕さん」も笹飾りもさやさやと音を立ててひるがえります。風鈴の音がどこからともなく聞こえる新暦7月7日の生野七夕は、すでに夏の風物詩として復活を果たした感がありました。
   
口銀谷 神崎家の七夕飾り 2008 口銀谷 桑田家の七夕飾り 2008
 
口銀谷 神崎家の七夕飾り 2008 口銀谷 石川家の七夕飾り 2008



    七月七日、牽牛・織女、聚会の夜と為す。是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、
    あるいは金・銀・鍮石を以て針を為り、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以て巧を乞う。喜子、
    瓜上に網することあらば、則ち以て符応ずと為す。 (七月七日、牽牛と織女が逢う夜、人家
    の婦女は、色糸を結び、七つの孔のあいた針、あるいは金銀鍮石で針を作り、机と筵、酒と肴、
    瓜を庭中に並べて、巧みを願う。瓜の上にクモが網をかけたなら、それはよい兆しである。)

 中国六朝時代の『荊楚歳時記』には、七夕について上記のように書かれています。6世紀の頃には、中国の民間習俗として星祭が成立していたことを示しています。この星祭の儀礼を「乞巧奠(きっこうてん)」と呼びました。織物の巧みであることを天の二星に願うという七夕が日本の宮中に定着したのは奈良時代の頃でしょうか。正倉院には、七夕の儀礼に用いられた7本の大小の針と赤白黄三色の絹糸束が伝わっています。
 やがて七夕は、機織だけではなく、書や歌、管弦をはじめ、技芸一般の巧みを乞う儀礼となり、中世、近世と時代を経て、武家から民間へも広がりをみせました。時節柄、祖霊祭としての盆行事や、実りの秋を前にした農耕儀礼などとも結びついて、地域色豊かな七夕飾りの数々を誕生させたといわれています。
武家の七夕飾りの様子 『女大学宝箱』文政12年より
 江戸時代の「乞巧奠」を文献や絵画などで確認すると、縁側に2本の笹飾りと渡した一本の細い竹竿、掛け飾られるのは、五色の色糸束や着物です。そこへ床机を据えて和歌を記した梶の葉や初生りの野菜を供え、香、琴や琵琶、星を映す水盤が添えられています。
 このしつらえを単純化すると、生野や播州(播磨灘沿岸部)に伝わる七夕飾りの構図が見えてくるのではないでしょうか。中国から宮中に伝えられた星祭の乞巧奠が、武家から町家へ、そして地方へと普及する過程で私たちの「七夕さん」が誕生したことを想像すると、「さやさや」「さらさら」とした七夕飾りの軽やかさの中に、長く積み重なった人々の営みが横たわっていることに気付かされます。

 来年の7月7日は、皆さまもぜひ、生野七夕をお訪ね下さい。町の方々はやさしい笑顔で生野の歴史や四季折々の行事について、楽しく熱心にお話し下さることでしょう。



最新の学芸室   

学芸室2014後期   学芸室2014前期   学芸室2013後期   学芸室2013前期   学芸室2012後期   学芸室2012前期

 学芸室2011後期   学芸室2011前期  学芸室2010後期   学芸室2010前期  学芸室2009後期    学芸室2009前期

学芸室2008前期   学芸室2007後期   学芸室2007前期   学芸室2006後期
   学芸室2006前期   学芸室2005