1号館・夏の企画展

〜港町・神戸のからくり人形、百年の歴史をたどる〜
幻の神戸人形展

2012年6月9日(土)〜2012年9月11日(火)

男女二人乗り人力車(大正〜昭和初期)

■「神戸人形」といえば、明治時代中頃に神戸で誕生したからくり人形です。台の上の人形が手を動かし、首をふり、大きな口をあけて西瓜を食べたり、酒を飲んだり・・・。その滑稽な動きと繊細な仕掛けは、神戸っ子だけでなく、神戸を訪れる外国人観光客の人気をさらいました。実際、明治から昭和初期にかけて作られた神戸人形は、アメリカやヨーロッパの各地に多く残されています。

■ 明治時代の神戸人形は、柘植(つげ)などの材料が使用され、木肌の美しさを強調した作品が多く、「お化け人形」あるいは「布引人形」(観光地・布引の滝で売られていたため)などとも呼ばれていました。昭和時代のはじめ、作品全体が黒い色で塗られるようになる頃には、「神戸人形」の名前が定着していきました。

■戦前の神戸人形の作者として名前が分かっているのは、初代の野口百鬼堂、二代目と目される出崎房松、昭和初期に神戸人形を有名にした小田太四郎ですが、無名の作者も少なからず存在し、神戸人形製作はかなり広範に行われていたとも考えられています。太平洋戦争後、一度廃絶した神戸人形でしたが、昭和30年代頃から、加古川市在住の数岡雅敦が、数百種に及ぶ神戸人形を精力的に製作して、復興を果たしました。昭和56年に開催された「ポートピア’81」では、神戸のユニークなからくり人形として広く注目を集めました。数岡の死後、また阪神大震災を経て、十数年間は製作者もなく、廃絶状態となっていましたが、平成15年より日本玩具博物館では、「西瓜喰い」「酒のみ」「釣鐘お化け」「面冠り」などの復元製作を行い、次代につないでいく活動を始めています。

■この展覧会では、日本玩具博物館が所蔵する膨大な神戸人形コレクションを百年の歴史を追ってご紹介するものです。神戸人形は、土俗性のある郷土玩具とは性格が異なり、自己表現ともいえる現代的な感覚にあふれ、他に例を見ない独特の工芸玩具です。

■本展を通して、港町・神戸が生んだからくり人形の独創的な世界をご堪能いただければ幸いです。

■展示総数 約350点
■展示概要

<第一章> 神戸人形の創始

 通説では、神戸人形の創始者は「淡路の人形師」とされてきましたが、確認できる最も古い作者は、神戸の長田神社(神戸市長田区)の参道筋で、商店を営んでいた「長田の春さん」であると思われます(永田清氏の調査による)。春さんの作品は、木地のまま、あるいは茶系統の色合いが特徴で、ろくろ首や三つ目などのお化けのモチーフが目立ちます。この頃の神戸人形が「お化け人形」と呼ばれた所以です。これとは別に、明治35年頃には出崎房松が登場し、黒い色の人形も作られ始めます。
 ここでは、創始期の独創性あふれる作品と、作者の写真資料などをあわせてご紹介します。

【野口百鬼堂の神戸人形】………明治時代の神戸人形には、台底に「野口百鬼堂」の商標(神戸長田村/元祖おばけ/野口百鬼堂)が押されることがあります。この野口百鬼堂が「長田の春さん(明治初年〜昭和の戦中頃)」ではないかと考えられます。
 春さんは、もとは芝居の小道具師で、明治30年頃には、神戸の長田神社の参道で、山椒昆布を商い、あわせてからくり人形も作って売っていたようです(道畑佐市著『回顧七十五年』昭和46年発行による)。 
鉦つき団子喰い(明治末〜大正期) 鉦叩き唐櫃お化け
(明治中〜末期)


【出崎房松の神戸人形】………出崎房松(明治16年〜昭和42年)は、和歌山県有田市に生まれ、大阪の呉服関係商に奉公した後、神戸の花隈に移り住みます。手先が器用で、木の根っこから動物などを作っていましたが、やがて「糸巻き」を利用してからくり人形を作り始めます。明治末期から大正期にかけて、外国人観光客相手の土産物屋や輸出業者の注文をとって人形
作りに勤しみました。出崎の作品と思われるものは、黒く塗られたものも見られ、背の高い台、蛇をあしらった作品も目立ちます。大正期頃は、大川某(名は不明)も出崎と一緒に人形を作っていたといいます。この他にも、神戸には、名前が知られていない「幻の作者たち」が何人かいて、からくりの巧妙さを競い合っていたと考えられます。

人力車二人連れ(明治末〜大正期) 木魚叩き(明治末〜大正期) お化けの三人宴会〜太鼓叩き・酒呑み・琵琶弾き〜
(明治末〜大正期)
人力車(明治末〜大正期)

<第二章> 神戸人形の興隆

 大正から昭和初期にかけて、神戸人形を有名にしたのは小田太四郎です。彼は、カタログらしきものを作成し、販売先を外国にまで広げていきました。小田は職人を使って製作しており、カタログ写真には、63種類の神戸人形が見出されます。昭和4(1929)年には、神戸へ行幸された天皇に作品を献上しています。この頃から「神戸人形」の名は、内外によく知られるようになりますが、小田以外にも神戸人形の製作に取り組む人達は存在したと思われます。
 ここでは、昭和初期の神戸人形と小田太四郎の関係資料をあわせてご紹介します。


木魚叩き座りお化け
(明治末〜大正期)
お化け箱(大正〜昭和初期)
【小田太四郎の神戸人形】………小田太四郎(明治16年〜昭和26年)は、日露戦争で両足を負傷し、神戸市からの斡旋を受けて、神戸人形を作り始めたといいます。出崎房松の妻が太四郎の妹にあたることから、出崎に人形作りを習ったとも考えられます。小田は手先が器用な上、仕事熱心でしたが、一度に量産が出来ないので、人形の部品などは、明石や姫路の木工所に外注していました。昭和4年、神戸へ行幸された昭和天皇への献上にあたって、小田が書いた作品の解説書によると、品名は「神戸人形」、材料は鹿児島県産の柘木、3人の職人を使い、年間の生産量は約1万個、年間生産総額は、7千円としています。販売先は国内及び外国で、作品の用途としては、小児の玩具、また「学生の勉強による疲労を癒すもの」と小田自ら位置づけていました。小田の作品は、創始期のものに比べて様式化され、色調は黒と赤に統一されていきました。

<第三章> 神戸人形の再現

 神戸人形は、太平洋戦争中に岡山へ疎開した小田太四郎によって戦後も作られますが、小田の死後、しばらくは途絶えます。その後、昭和30年代中頃から、神戸人形の復活に取り組む人が現れました。兵庫県加古川市に住む数岡雅敦(喜八)は、古い神戸人形を分解研究するなどして、その再現に成果を上げました。
 昭和時代の神戸人形は、数岡のほか、神戸市内の民芸店神戸センターと元町の玩具店キヨシマ屋が製作・販売を行い、復元の形をとりながら、伝承を受け継ぎました。数岡の作品は一体が8千円から8万円と高価で、普及にも限りがありましたが、神戸センター製やキヨシマ屋製の作品は、数岡に比べて細工もシンプルで、安価。普及版としての大きな役割を果たしました。
 ここでは、数岡雅敦の代表作品と製作過程、普及版として広く親しまれた昭和後期の神戸人形をご紹介します。

【数岡雅敦の神戸人形】………数岡雅敦(昭和3年〜平成元年)は、神戸の郷土史家・荒尾親成氏の助言を受け、また明治・大正期の古い神戸人形を分解し、その仕掛けを研究するなどして、再現に取り組みました。その結果、昔とそれほど変わらぬものを作れるまでになり、数百種類にも及ぶ神戸人形を作り上げました。 
 昭和56年、神戸で開催されたポートピア’81で、神戸人形は神戸土産として脚光をあび、広く知られるところとなりましたが、量産できる人形ではないため、普及には限りがありました。数岡の作品は黒と赤の対比が美しく、動く時に発する音にも魅力があります。
魚屋(昭和50年代) 太鼓叩きと目の出るお化け
(昭和50年代)
酒買い小僧と鉦叩き
(昭和50年代)



【キヨシマヤ屋・神戸センターの神戸人形】………神戸元町で古くから玩具店を営むキヨシマ屋や、三宮センター街の民芸店・神戸センターにおいても、神戸人形は作られていました。数岡氏の作品に比べてシンプルで、それぞれに特長をもっています。これらも阪神大震災を経て廃絶してしまいました。

【日本玩具博物館と神戸人形】………平成12年、日本玩具博物館では、ニューヨーク在住の神戸人形コレクターを通じて、43点の神戸人形を入手しました。それらのお披露目をかねて、『神戸人形と世界のからくり玩具展』を開催したところ、多くの皆さまより反響をいただきました。数岡雅敦の死後も、細々と作られ続けてきた神戸人形ですが、ここ数年は製作者もなく、廃絶状態。「平成の神戸人形を製作してほしい」という要望に応じ、当館では復元的な製作に取り組んできました。現在、藤尾秀久の手によって、日本玩具博物館版「西瓜喰い」「酒のみ」「釣鐘お化け」「面冠り」が製作されています。


『幻の神戸人形』

*実演解説会のご案内*

 展示品のいくつかを動かしながら、一点一点に込められた奇知と工夫をさぐり、作品の特徴について、当館学芸員がお話しします。

 ●日時……2012年6月17日(日)
             7月1日(日)・8日(日)・15日(日)・22日(日)・29日(日)
             8月5日(日)・12日(日)・14日(火)・15日(水)・19日(日)
             9月2日(日)の11時30分から40分程度